【プレスリリース】宇宙はいかにして単純な姿を獲得したか―確率的に選ばれた私たちの宇宙―

プレスリリース

東京大学宇宙線研究所

「稀で単純」な私たちの宇宙 
真ん中からはじまった小さな宇宙は,揺らぎの影響によって赤線に沿って時計回りに進化します。青線に沿って進化するよりも
長時間のインフレーション=大きな宇宙を実現し,きわめて単純な様相を獲得します。(クレジット : Koki Tokeshi, Vincent Vennin)

発表のポイント

◆確率的手法に基づいてインフレーション宇宙を解析した結果,宇宙がたとえ初期に複雑な姿をしていても,インフレーションの過程で単純な姿が獲得されることを理論的に示しました。
◆理論的に期待される宇宙の複雑な姿と,実際の観測から分かってきた宇宙の単純な姿という両者の隔たりが,量子揺らぎを鍵として解消されることを見出しました。
◆本研究成果は,将来的な観測によりインフレーションモデルを同定する手掛かりを与えます。

発表の概要

 東京大学宇宙線研究所の渡慶次孝気特任研究員は,パリ高等師範学校物理学部門のVincent Vennin 主任研究員との共同研究において,初期宇宙の急激な加速膨張(インフレーション(注1))の過程で,揺らぎ(注2)の量子的なふるまいが私たちの宇宙を稀な確率で実現した結果,現在のような単純な姿が観測されるに至ったことを明らかにしました。これは,初期宇宙の高エネルギー環境から理論的に期待される複雑な姿と,実際に観測されているその単純な姿,という両者の隔たりを自然な論理で解消する重要な成果です。このことは,逆に,将来的な観測が宇宙の複雑な姿の痕跡をとらえた場合に,インフレーションの理論モデルを同定する大きな手がかりを与えるものです。本研究成果は,米国物理学会誌Physical Review Letters への掲載が決定しています。また,特に重要な研究成果を6 分の1 の割合で取り上げるEditor’s suggestion に選出されました。

研究の内容

 我たちの宇宙は,局所的に見ると星・銀河・銀河団といった豊かな構造がある一方で,大域的に見ると一様かつ等方であることが知られています。現代宇宙論は,今日の宇宙がこのようである理由を「宇宙が生まれた直後に急激な加速膨張期(インフレーション期)があったからだ」と説明します。

 初期宇宙は現代の加速器をもってしても到達不能なほどの高エネルギー環境を提供しており,これゆえ様々な素粒子の「場」(注3)が存在し,複雑な様相を呈していたことが期待されます。一方,インフレーション中に生成された量子揺らぎは現在,宇宙マイクロ波背景放射(注4)の観測によってその痕跡が精力的に調べられていますが,観測の結果はきわめて単純な物理モデルで説明されます。理論的に期待される宇宙の複雑な姿と,観測から明らかになった実際の宇宙の単純な姿との間にあるこのような不整合に対して,これまで自然な理解を与えることができずにいました。これは,現代物理学が抱える原理的な困難のひとつであったと言えます。

 ここまで「単純な姿」とか「複雑な姿」とただ書いてきましたが,これを少々補足します。インフレーションが実現される理論モデルを考えるうえでは,たったひとつの「場」によってインフレーションが起こる「単一場」モデルに限らず,より一般にたくさんの「場」が寄与する「複数場」モデルの可能性だってあります。しかし驚くべきことに,これまでの観測結果は,複雑な要素を必要としない「単一場」モデルで華麗に説明できてしまうのです。では,どうして私たちの宇宙はこんなにも単純な姿をしているのでしょうか?この疑問が本研究の主題です。

 インフレーションは,生まれて間もない小さな宇宙を,現在ほどのサイズにまで急激に大きくしてしまう機構です。宇宙がまだ小さかった頃の現象なので,アインシュタインの一般相対性理論で記述される重力と並んで量子力学も重要な役割を演じます。相対性理論は光よりも早く情報が伝わることを禁止し,量子的な揺らぎは宇宙の進化を場所ごとに揺さぶるため,ある点と遠くはなれた別の点では,インフレーションの終わるタイミングが揃わなくなるのです。

 ところで,昨今の物価高が私たちの家計を圧迫して久しいですが,我が国が宇宙論的な意味でのインフレーションにさらされるとどうなるでしょうか。日本の領土がどんどん大きくなっていく中で,よく見ると,揺らぎの影響で都道府県ごとに拡大の割合が異なります。たとえば,私は名前に反して沖縄出身ではありませんが,沖縄県がもっとも大きくなったなら,上空からランダムに飛んできた鳥は,他のどの都道府県よりも沖縄県に着地する可能性が高いことが想像できると思います。このとき,面積拡大のために沖縄県の生態密度(面積あたりの個体数)はきわめて小さくなっていて,もともとあった生態系の多様性はもはや失われているでしょう。

 図1 は,本研究成果を要約するものの一つですが,ちょっとだけ先取りしていまの例え話を当てはめてみましょう。横軸を生態系の多様性と読み替えることにすれば,短時間しかインフレーションが起こらなかったほとんどの県が右側の黒線に対応し,逆にもっとも拡大した沖縄県が左側の曲線に対応します。インフレーションが長く続けば続くほど,つまり県が拡大すればするほど,多様性の分布を表す曲線は左へとずれていき「単純な」県となってゆくのです。

 私たちは,このような「もっとも膨張して,宇宙の中で最大の体積を占める領域」における場の振る舞いを,確率的な手法を用いて解析しました。確率的というのは,インフレーション中の場は揺らぎにさらされているため,ちょうど忘年会の帰り道のごとく揺れ動いているためです(このような運動は,ブラウン運動と呼ばれます)。その結果,たとえ宇宙が「複数場」の状態からはじまったとしても,長時間のインフレーションの過程でほとんどの場が消失し,私たちが観測している局所的な宇宙にいたる頃には「単一場」の状態,すなわち,きわめて単純な姿に行き着くことを示しました(図1)。これは,インフレーションが短時間しか起こらなかった場合(図2 左)に比べて,揺らぎが場を「まわり道」させて(図2 右),インフレーションの期間が延ばされることによって,時間を稼ぐうえで有利な場だけが生き残るためです。

図1:揺らぎの影響でインフレーションが長く続けば続くほど,私たちの宇宙は「単純」になります。
(クレジット : Koki Tokeshi, Vincent Vennin)
図2:揺らぎによってインフレーションの時間が延ばされ,場が「まわり道」します。時間を稼ぐうえで不
利な場がすべて消失し,私たちが観測する局所的な宇宙は「単純な宇宙」(青い領域)の一部となります。
(クレジット : Koki Tokeshi, Vincent Vennin)

 本研究成果は,冒頭に述べた理論と観測との隔たりが,揺らぎを鍵として解消されることを意味するものです。また逆に,将来的な観測が宇宙の複雑な姿の痕跡,すなわち「複数場」の状況にかぎって現れる揺らぎの特徴をとらえたならば,インフレーションの理論モデルを同定する大きな手掛かりを与えるものでもあります。なぜなら,観測可能な領域においても単一場に向かうことのない例外的な理論モデルが必要とされるためです。


発表者・研究者等情報

 東京大学 大学院理学系研究科
  渡慶次 孝気  研究当時:博士課程/日本学術振興会特別研究員
             現:東京大学宇宙線研究所 特任研究員

論文情報

〈雑誌〉 Physical Review Letters
〈題名〉 “Why Does Inflation Look Single Field to Us?”
〈著者〉 Koki Tokeshi*, Vincent Vennin(*:責任著者)
  (電子版の掲載 : 6 月初旬の予定です)

研究助成

 本研究は,特別研究員奨励費「原始ブラックホールと重力波で探る初期宇宙(課題番号:21J20818)」の支援を受けて実施されました。

用語解説

(注1)(宇宙の)インフレーション : 宇宙が生まれた直後(小学生のように大きな数の言い方をすると)1000 兆分の1000 兆分の1 秒よりももっと短い時刻までに起こった急激な加速膨張のことを,宇宙のインフレーションと呼びます。インフレーションが終わると,場(注3)のエネルギーが他の粒子の熱エネルギーに変換され,高温・高密度の熱い「ビッグバン」宇宙に接続されます。論文や書物によっては,宇宙の本当のはじまりのことをビッグバンと呼ぶこともあるため,都度確認が必要です。

(注2)揺らぎ : 宇宙がまだ小さかった頃は,すべての物理量は波の性質を持ち量子力学の効果も考える必要があり,このため平均値からのずれが常に存在します。このずれのことを揺らぎと呼びます。揺らぎは,現在の宇宙を織りなす星・銀河・銀河団といったすべての構造の種となるものです。

(注3)場 : 時空間の各点で値を持つ物理量のことを場と呼びます。たとえば,温度は測る場所や時刻に応じて値が決まるため,身近な場の例です。素粒子の性質を扱う場の量子論によると,すべての素粒子は対応する場によって記述されます。本稿図中では,インフレーションがひとつの場で実現される場合に「単一場」と言い,これと対比して複数の場が寄与する状況を「複数場」と呼んでいます。

(注4)宇宙マイクロ波背景放射 : 宇宙誕生から38 万年経った頃,それまではイオン化して高温のプラズマ状態にあった電子と陽子が結合して中性の水素原子を形成することで,光の進路をさまたげるものがなくなり,光が真っ直ぐ進むことができるようになりました。すなわち,私たちが観測できるもっとも古い光は,このとき最後に散乱された光ということになります。現在の宇宙に充満しているこの光こそが,宇宙マイクロ波背景放射と呼ばれているものの正体です。