東京大学宇宙線研究所長 梶田隆章教授 2015年ノーベル物理学賞受賞

回顧録

Kamiokandeの頃(2)

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梶田隆章

1981 年 4 月に大学院学生として入った当時の小柴研究室では、ドイツ DESY のPETRA での JADE 実験に参加して博士論文のための研究をしている人が多かった。そんななかで、有坂勝史さん(私の2年上)が陽子崩壊実験の準備を小柴研の学生としては一人で行っていた。有坂さんは修士論文で陽子崩壊実験のための準備研究、特にモンテ・カルロ・シミュレーションのコードを書いて感度を詳細に調べていた。

この陽子崩壊実験は後にカミオカンデと命名されたので、以下カミオカンデと記載する。ちなみにカミオカンデはKAMIOKA Nucleon Decay Experimet の頭字で小柴先生の命名である。

修士1年に入ってすぐに有坂さんから陽子崩壊を一緒にやらないかと誘われて陽子崩壊実験に参加することになった。ちょうど私が修士1年に入る少し前に 20インチ光電子増倍管ができたところでもあり、まずは新たにできた光電子増倍管の特性検査を有坂さんの指導のもとで行った。特性検査として様々な検査項目があったが、いくつかについては製造会社である浜松テレビ(現在の浜松ホトニクス)まで出掛けて行った。私が光電子増倍管について関わったのは修士の間くらいであったが、有坂さんはその後も光検出器についていろいろと開発などに関わってきたと了解している。

光電子増倍管の性能は問題ないものであった。問題は光電子増倍管を水中で使うことであった。この点について高エネルギー物理学研究所(当時、以下 KEK)の鈴木厚人先生が担当していた。まずは光電子増倍管をどのように水中で固定するかという問題があった。このことをテストするため、鈴木厚人先生は KEK に、大きさは正確に覚えていないが、8m × 8m 程度の表面積で高さ1m強の試験用水槽を製作した。これに参加していたのは、鈴木厚人、有坂勝史、西村明俊、小林真、宮野和政の各氏と梶田で、高橋嘉右、須田英博両先生もときどき見に来ていた。小林真氏は私と同じ学年で、この水槽でいろいろなテストをして修士論文を書き学外に就職した。

戸塚洋二先生は、1981 年の春にドイツから日本に戻り、初めは LEP のための準備をしていたが、小柴研でカミオカンデの準備をしていたのが小柴先生を別にすれば大学院学生だけだったためか、少しずつカミオカンデのことを面倒みてくれるようになった。

光電子増倍管は水槽の中に固定しなければならない。光電子増倍管の水中での浮力は約 50kg あるので、それを浮かないようにするのは簡単ではない。最初は漁網で光電子増倍管を1個ずつ金具に固定することを試みたが、あとで試験用水槽から水を抜いて見たところ、網が延びていて、本番で光電子増倍管の固定に使うのは難しいことがわかった。最終的に光電子増倍管の最大径のところと少し後部の約 10 インチの短い円筒部分で、ステンレスのバンドの内側にゴムを貼り付けて抑えることにした。これが誰のアイデアだったか正確には覚えていないが、たぶん有坂さんだと思う。いずれにしてもこの金具の図面は有坂さんが書いていた。

光電子増倍管を水中で使うにあたってのもう一つの懸念は、光電子増倍管にかかる約 2kV の高電圧を各ダイノードに分配する回路の防水であった。これについても鈴木厚人先生が浜松テレビと開発していったと記憶している。結局、光電子増倍管のダイノードの電極が出ているところにブリーダー回路を半田付けで取り付け、それを囲むように塩化ビニール管を置いて防水の為にそこに樹脂を流し込んで防水することにした。これで實験はできたが、1000 本の光電子増倍管全数の防水が完全とは云へず、後のスーパーカミオカンデでは改良型を使った。スーパーカミオカンデでの防水も鈴木厚人先生が担当した。

20 インチ光電子増倍管について、その大きさ故、当初からもし壊した場合にその爆縮がすさまじいもので危険ではないかとの懸念があった。そこで KEK で光電子増倍管を割ってみて、その破壊力を確認することにした。もっとも近くで人の手で割るのは怖いので、不良品の光電子増倍管を空き地に置いて、遠くから石を投げて割ることを試みた。もっとも遠くからなので、なかなか割れなかった。いずれにしてもやはり爆発音はすごいもので、光電子増倍管の取り扱いに対する細心の注意が必要なことを思い知らされた。

また、光電子増倍管が水圧によって破壊された際に、どうなるか(隣の光電子増倍管を壊さないか)についても心配の種であった。そこで先に書いたKEK の試験用水槽に光電子増倍管を本番と同じ1メートルのグリッドで配置して、そのうちの1つを割ることをした。結局大きな水柱が立ったが、隣の光電子増倍管は無事であった。しかし、あとで考えれば、この試験を行うには水深が全く足らなかった(※1)。

20 インチ光電子増倍管は大きいため、地磁気程度の磁場でもゲインの場所依存性があり、それが問題であることは、早い段階でわかった。当時の宇宙線研でカミオカンデに参加していた須田英博先生が、田無のどの建物かは覚えていないが、ヘルムホルツコイルを作って光電子増倍管の磁場特性を詳しく調べた。地磁気があると、悪い場合には地磁気が無い場合の 20%位のゲインになってしまい、このような方向依存性があると精密な測定は不可能なことは一目瞭然で、対策が必要であった。

2つの方法が検討された。1つはミューメタルで地磁気を遮蔽すること。ただこの方法では、フォトカソードからダイノード間の磁場を落とすためにはミューメタルをフォトカソードより前に出さねばならず、それでは光を十分受けられない。そこでフォトカソードの前にメッシュ状に加工したミューメタルとフォトカソードの後ろにコーン状のミューメタルの組み合わせで磁場を落とすことになった。それと同時にカミオカンデのタンクの周りにコイルを巻いて磁場を打消す方法も調べられた。コイルを巻いて磁場を消すことについては梶田が計算をしたが、うまくコイルを配置すれば結構うまくいくことがわかった。結局両方法とも使うことになった。

光電子増倍管を水槽内に入れる前にゲインを全数キャリブレーションすることになった。1982 年の秋、神岡鉱山でアクセスの便利な茂住坑口事務所で行った。一部は他の場所でも行ったかもしれない。しばらくの間、私と一学年下の中畑君で毎日神岡鉱山の坑口事務所で朝から晩までこの作業を繰り返した。梶田は光電子増倍管のキャリブレーションで修士論文を書いた。

1983 年の初になってもオンラインのデータ収集システムが未整備であったので、小柴研で私の1年上の真下哲郎さんが協力してくれ、中畑君との共同作業で短時間(1-2ヶ月?)で完成した。

(※1) 2001 年に起った SuperKamiokande での事故は正に光電子増倍管の内一個が水圧によって破砕し、その衝撃波の伝播により連鎖反応的に起ったのである。

カミオカンデの建設

カミオカンデの空洞掘削と水槽建設が終わって現地に資材を運んで光電子増倍管の取付作業を開始したのは1983 年の 3 月頃である。カミオカンデではあらかじめ高電圧と水槽上面の位置にあるエレキに繋がる信号ケーブルを光電子増倍管の近くまで配線しておき、光電子増倍管を水槽に設置したときに光電子増倍管より出るケーブルとを接続する方法をとった。そのため、水槽での光電子増倍管取り付け作業の前に、高さ 16 メートルの水槽にケーブルを全数の増倍管用に配線しておかねばならなかった。そのため、須田先生が一人乗りのゴンドラに乗ってこの作業をやった。弱音を吐くことのない須田先生が珍しく「船酔いした」と顔面蒼白になって話していた。

水槽への光電子増倍管の取り付けは底面からアクセスできる側面の下からの2段と底面から始めた。1983 年 4 月頃である。作業はほぼ神岡常駐の須田先生、鈴木厚人先生、有坂さん、中畑君、それから修士1年に入った瀧田正人君と梶田、また戸塚先生、木舟正先生、新潟大の宮野和政先生などもかなり頻繁に来て行った。素粒子センターから井森さん、技官の田中さんも応援にきていただいたこともあった。

この頃、宇宙線研が鉱山のアパート2世帯分を借り上げて常駐に近い人たちが泊まった。1世帯分は教官が使い、1世帯分は大学院学生が使った。この頃は須田先生が現場で指揮をとり、毎晩アパートで鈴木厚人先生と明日の作業などについて打ち合わせをしていた。毎晩非常に長い時間をかけてやった須田先生の打ち合わせに付き合った鈴木先生には感心した。

底面から作業が出来る光電子増倍管の取り付けが終わったくらいのとき、すぐに水を入れろという小柴先生と、確認をしてからと主張する須田先生の間で大議論になった。この時はともかく高電圧をかけて信号をオシロで見させてほしいとの須田先生の主張が受け入れられた。これを受けて(たぶん)中畑君、戸塚先生、須田先生が「二の方」をして高電圧と信号の確認作業を行った (坑道に入る二番手を鉱山用語で「二の方」と云う)。

光電子増倍管の防水と共に、ケーブルの接続部分の防水も懸念事項であった。そのため様々な案がテストされて方法が決められた。結局ポリエチレン被覆の同軸ケーブルをポリエチレンの熱収縮チューブで覆い、ポリエチレンどうしを溶着して接続点を防水するという方法をとった。しかし本番で熱収縮チューブを加熱しすぎたのか、内部のポリエチレンまで溶けてしまい、グラウンド線と高圧線が接触、あるいはそれに近いものが非常に多く出来て仕舞うという大失敗であった。すぐに須田先生が少し変更した案を出し、うまく行きそうだということで、これに変更し、だいたい1週間でやり直し、建設作業に戻れた。

その後、水を下から2メートルくらいまで入れて、最初のデータが取れたときの嬉しさは忘れない。最初からうまくデータが取れ、オンラインデータ収集プログラムを書いた真下さんと中畑君に感心した。

側面は水を入れながら、ゴムボートに乗って、金具を取り付けた光電子増倍管の取り付けを一つ一つ行った。これはうまくいったと記憶している。ただ、このゴムボートに降りるのに1人乗りのゴンドラで降りることになっていて、そのゴンドラを上まで揚げなければ2人目が降りてくることができない。ゴンドラを動かすには人がそこに乗ってボタンを押し続けねばならないので、上まで無人であげることができないことが判明した。今だったら保安安全上許されないのだろうが、無人でボタンを押しておくものを現場で作って、2人以上の人がボートの上で作業できるようになった。

上面は、3 個ずつ並べた光電子増倍管のモジュールを作っておいて上面からクレ ーンで取り付け、これも無事終えることができた。このようにして光電子増倍管の取り付けが完了し、1983 年 7 月 6 日にカミオカンデはデータ収集を開始することができた。

カミオカンデの初期の頃

カミオカンデでデータを取り始めて、データ解析が始まった。実はこの時デー タを取り始めるまで事象再構成のプログラムがなく、急遽これらのプログラムの製作が始まった。まず事象の発生点を再構成するプログラムは戸塚先生が書いた。データ・リダクションのメインの部分は有坂さんが担当したかと思う。エネルギーキャリブレーションは中畑君がやった。

カミオカンデでは水槽に水を入れながら光電子増倍管の取り付け作業をしていたので、初期の水質は十分よいとは言えず、散乱光が多かった。この状況を見て小柴先生が紫外線吸収剤を水槽に入れたいと提案した。いくら大きい光電子増倍管とはいえ紫外線が受からなければ光量は大きく減るはずで、この改造案はそんなにうまくいかないのではないかと考え、鈴木厚人先生とこれだけはやりたくないと相談していた。もっとも、常時水槽に新しい水を供給していたため、割合と短時間できれいな水となってこの問題は忘れ去られた。梶田もこのことは忘れていたが、小柴先生のノーベル賞受賞後に昔のことを鈴木先生が書いているのを読んで思い出した。

実験を始めてから2ヶ月位たって、きれいな3リングの事象が観測された。また事象を再構成してみると、運動量の和が陽子崩壊の一つの指標にしていた ≤ 400MeV/c を満し、結構小さかった。このイベントは陽子がミューオンとη 中間子に崩壊したのと矛盾がなく、かなりの興奮であった。結局、同じ崩壊モードの事象は後に続かなかったし、またこの事象で観測された運動量の和も陽子崩壊にしては少し大きめであったということもあって、陽子崩壊の発見とはならなかった。

同じ頃、宇宙線ミューオンが測定器水槽内で止まり、その後2マイクロ秒程度で崩壊したときに放出された電子のエネルギー・スペクトルを見て、小柴先生が約 15 MeV 位まではバックグラウンドなして綺麗にスペクトルが取れているのであるから、装置を改造して太陽ニュートリノを観測すべきだと提案した。

また同時に小柴先生はカミオカンデでは太陽ニュートリノが観測できたとしても、十分なイベント数がなくていろいろな研究はできないとして、今のスーパーカミオカンデの提案をした。このとき装置の名前は JACK (Japan America Collaboration at Kamioka) と呼んでいた。今のスーパーカミオカンデの名前を使うようになったのは 1984 年からだ。

カミオカンデ-II に向けて

カミオカンデでの太陽ニュートリノ観測の提案を受けて、各チャンネルに TDC を取り付けることと、外部からの粒子を除くためにアンタイカウンターを設置することが検討されたように記憶している。1984 年の1月初めに小柴先生が ICOBAN 84 の会議でカミオカンデの結果と共に、これらの提案をしてくるとのことだった。と云うことで、戸塚先生以下全員で正月無しで小柴先生の発表の資料を作った(※2)。

ICOBAN 84の会議での小柴先生の提案に対して、Pennsylvania大のA. K. Mannが興味を示した。そして 1984 年 3 月に Penn 大から、A.K.Mann, E.W. Beier, R. van Verg, BNL から D. H. White, また Caltech のポスドクだった B. Cortez が東京に来て、カミオカンデでの共同研究に関する最初の打ち合わせを行った。アメリカ側の提案はデッドタイムフリーのADC+TDC システムであった。日本側はアンタイカウンターを分担すると云うものだ。

梶田は 1984 年の夏 2 ケ月 Pennsylvania 大に滞在してエレキの開発を手伝った。手伝ったことがどれだけ役にたったかは知らないが、自分としては非常に良いエレキの勉強の機会になった。もっともその後エレキのことに関わることはなかった。

アンタイカウンターを取り付けるための工事は鈴木厚人先生が担当した。工事は主に 1984 年の後半から 1986 年頃だったと思う。カミオカンデのアンタイカウンターは上面については建設時に水槽上面より約60cm程度下に光電子増倍管が取り付けてあったので、その空間に水を入れ、光電子増倍管を設置してアンタイカウンターとした。底面は側面の一番下の段の光電子増倍管を取り除いて底面を約1.2m 嵩上げして空間をつくりそこに底面のアンタイカウンターを設置した。私は直接その現場にいなかったが、光電子増倍管を取り付けてある底面を一斉に嵩上げする工事の際、支えがぐらついて全体が傾きかけ、たまたま金具の一部が別な金具にぶつかって止まり、底面の光電子増倍管が壊れる事故になるのを免れたと聞いた。

側面のアンタイカウンターは水タンクとそれをとり囲む岩盤の間に水を入れカウンターにしようと云うもので、三本ある坑道からタンクへの進入路を鉄筋コンク リートの壁でふさいでしまい、水槽外側の防水(さび止め)と岩盤からの水漏れ対策を目的としてゴム・アスファルトで塗装して水槽とし、そこに光電子増倍管を設置した。残念ながら側面の岩盤面の防水は完璧ではなく、水漏れで水位がある程度までしか上がらなかった。水漏れは 1 時間 10 トンくらいに達した。何度も問題のありそうな箇所を探しては上塗りしたが、結局水漏れはなくならなかった。最後は漏れる量より注水する量を増やしてどうにか側面のアンタイカウンター層を予定通りの水位に保つことができるようになった。大体毎時 15∼20 トンの注水量であった。この工事では鈴木厚人先生は大変な苦労をしていたと思う。

カミオカンデの初期のトリガー閾値は 30MeV であった。Pennsylvania 大のエレキが入るまでの間に今までより低エネルギー領域のことを確認することも視野に入れて、低エネルギーのイベントが取れるトリガーを作成した。最初の案は戸塚先生によるもので、梶田が実際に作業をした。1984 年に開始して 1985 年 3 月末頃現地で取り付けた。正確には覚えていないが、一応 8.5MeVでは光電子増倍管のアクシデンタル・ヒットによるトリガーはほとんどないと期待されていた。しかし、いざ入れてみると約 500Hz で予想と全く違った。この時に鈴木厚人先生が純水装置を止めてみることを提案した。やってみると数日で目に見えてトリガーレートが減っていくことが確認された。これによって、半減期 3.8 日で減っていくラドンが問題であることが初めてわかった。これ以降、カミオカンデではラドンのバック グラウンドとの戦いが始まることになった。

カミオカンデの純水装置は当初の設計では水中での光の透過率をあげることを目的としていた。また坑内を流れる水は非常にきれいであった。そのため、カミオカンデでは当初は坑内の水を、フィルターを通しただけで測定器水槽に入れていた。これでもおおよそ 30m の透過率があった。透過率は宇宙線の突き抜けミューオンを用いて測ったものだ。ラドンが問題であることが判明したので坑内の水を常時注入することはできなくなり、水槽と純水装置で循環しながら純化をする必要が生じた。これはなかなか大変なことであった。循環した水は水槽内に約 1 月滞留するのであるが、その間にバクテリアが発生する。その都度塩素 (次亜塩素酸ナトリウム) での殺菌を行う必要があった。また循環しながらの純化の初期にはいろいろなトラブルで純水が抜けたりして、その都度坑内の水を入れトリガーレーカトが上がるということを経験した。1986 年頃まではこのようなことを頻繁に行っていたと記憶している。その後水槽中の純水の純度が上がるとともにバクテリアの問題はいつの間にか消えていった。この間の純水装置の改造なども鈴木厚人先生が中心的に行っていた。

カミオカンデ-II のデータ解析

梶田は 1986 年 3 月にカミオカンデ-I における核子が反ニュートリノと中間子に崩壊する核子崩壊の探索で博士号を得た。学術振興会のポスドクには不採用で、どうしたらよいかと困っていたら、小柴先生から素粒子センターの助手で1年間だけ雇ってもらえると言はれた。結局1年では職が見つからず、もう 1 年、合計 2 年雇ってもらった。(その後 1988 年4月に宇宙線研究所の助手に採用していただいた。)OPAL 実験の準備で忙しいなか、2 年目も雇ってくれた小柴先生、折戸周治先生をはじめとする素粒子センターの皆様には深く感謝している。

この 2 年間で OPAL の準備の手伝いのために、2、3ヶ月の CERN への出張が 3回あった。1985 年後半は博士論文を書いていたと云うこともあって、1985 年から1987 年頃にかけてはカミオカンデ-IIの準備や初期の頃の全体の改造工事のことは上記に書いた程度しか書けない。最後に少しだけ大気ニュートリノの解析のことを書いておきたい。

カミオカンデのデータ解析を始めた割合初期の頃から、観測されたチェレンコフリングが電子やガンマ線など電磁シャワーによるものか、ミューオンやパイ中間子など電磁シャワーを作らない粒子によるものかを分けるプログラムはあった。ただ、陽子崩壊のような多重のチェレンコフリングが観測されている事象の解析では、非常に限られた場合にしか粒子識別ができず、また使えるか否かの判定条件もあまり納得のいくほど明らかではなかった。博士論文では当時のプログラムを使って解析して結果を得たものの、カミオカンデ-II になる機会に、もっと納得のいく粒子識別にしたいと考えていた。また粒子の発生点の決定などもTDC が入ることで断然よくなると思っていた。

そこで、博士論文を提出した直後の1986 年の 1、2 月頃から事象解析プログラムの改造を始めた。まず粒子の発生点を TDC データを使って求めるプログラムを書いた。このとき、粒子がミューオンであろうと電子であろうと粒子の種類によらず粒子発生点を求めることを一つの目標にした。これが可能になれば、p < 300MeV/cくらいなら、チェレンコフ光の opening angle を使うことで粒子の識別に関して、イベントのパターンと独立な情報を得ることが可能になるはずとの思いがあった。

その後、光電子増倍管1本ずつについてmulti-ring 事象の各リングの光量の寄与を分けるプログラムの改良を行った。これは元々有坂さんが書いたもので、これは当時の私には画期的と思へるようなコンセプトで作られていた。非常に良いものであったのだけれども、各光電子増倍管で受けた光子数が少ない場合の統計の扱いと、総てを電子型のチェレンコフ光と仮定している部分が不十分と感じられたので、有坂さんのもともとのアイデアは生かして、上記の2点について改良した。この改良では粒子の種類によらず、それぞれの粒子の放出するチェレンコフ光を分けられるようにすることを念頭におき、いずれそれぞれのリングについて粒子の識別が可能なようにしたいとの考えがあった。

上記の改良に引き続いて粒子識別のプログラムを書いた。1986 年 10 月頃であった。multi-ring 事象について電子型の確率とミュー型の確率を計算し、またほとんど分離ができない場合にはその確率がほぼ 50%ずつを与えるようなプログラムになることを目指した。つまり周りのリングと大きくoverlap していれば粒子識別は難しいので自動的に 50%に近くなって、どちらとも言えないという結果になるように設計した。

上記の粒子識別の一番簡単な場合がチェレンコフ光のリングが1つの場合である。この場合はリングの overlap などの面倒なことがないので、純粋に粒子識別のプログラムの確認ができる。まずは1リング事象について既に観測されていた大気ニュートリノのデータに粒子識別をかけてみた。モンテカルロによれば大体98%は正しい答えが得られる筈であった。しかし、その結果はモンテカルロの予想と違ってミューオンの数が有意に足らないというものであった。たぶん 1986 年の10 月から 11 月の頃だと思う。

最初は、モンテカルロと現実の測定器が大きく違い、モンテカルロではうまく働く粒子識別がデータでは働かず、データでは多くのミューオン事象が電子事象として認識されてしまったのだろうかなどと思った。しかし、確認のためデータのイベント・ディスプレイを目で見て、これは粒子識別のプログラムの問題ではないと確信した。

前後関係は忘れたが、宇宙線のミューオンと、そのミューオンが止まり崩壊して生成された電子を使って粒子識別を行い、同じ条件でつくったモンテカルロ事象での粒子識別の結果と比べるとことでも、粒子識別プログラムに問題はないことは確認はできた。

実は既にカミオカンデ−I の時代から 1 リング事象中で µ → eνν¯ 崩壊の電子の観測数が少ないという問題があることは我々の間では認識されていたが、その理由はわからないままであった。この問題は1リング事象中のミューオン事象が少ないことを受け入れれば問題なく解決することがすぐにわかった。

データ・リダクション後のデータ中のミューオン事象が少ないことはわかったもののデータ・リダクション等に何か問題があってミューオン事象が落ちている可能性があるので、様々なチェックをその後1年くらいかけて瀧田君と行った。結局はデータ・リダクション、その他に問題は見つからず、論文を書くことになった。データ解析その他に問題がないとなれば可能性としてニュートリノ振動などは自然に考えられる。しかしこの時点ではニュートリノ振動のパラメータ領域などを記載することについては合意が得られず、その可能性を指摘するにとどめることになった。この論文を書くにあたって小柴先生と戸塚先生には強いサポートをいただいた。この論文は 1988 年の初めに投稿され、4月に出版された。

そもそもカミオカンデ−II で行ったソフトの一連の改良は陽子崩壊の解析の改良を目指したもので、改良された陽子崩壊の解析は1989 年に論文とした。カミオカンデ −II のデータ解析では他に超新星ニュートリノや太陽ニュートリノがあるが、これらについては他の人に書いてもらうのが適当だと思うので割愛する。

(※2)小柴先生の「心覚へ」によると、先生はインフルエンザに罹り結局 ICOBAN 84 には行ってをらず、先生が Al Mann に話を頼んでいる (福來註)。

はじめに/ 小柴昌俊「若き日の研究を振り返って: Kamiokande を始める迄」 / 荒船次郎「宇宙線研究所とKamiokande」 / 中畑雅行「Kamiokandeの頃(1)」 / 梶田隆章「Kamiokandeの頃(2)」