東京大学宇宙線研究所長 梶田隆章教授 2015年ノーベル物理学賞受賞

回顧録

宇宙線研究所とKamiokande計画(※1)

内容についてのお問い合わせは受け付けておりません。また、二次配布や転載は一切お断りさせていただきます。

(※1)この原稿の脚註は荒船氏によるものである。最終稿 2012 年 1 月 15 日。

荒船次郎

僕が宇宙線研に行ったのは1979 年 4 月だ。KEK(現在の高エネルギー加速器研究機構) に在職中に三宅所長に頼まれた西村純さんから、宇宙線研に行かないか、と言われた。アメリカの友人から別の誘いもあったが両親が老齢なので東京に居たいと思ったのと、KEK の任期もそろそろ近づいていたので、宇宙線研に行く事にした。僕は宇宙線研究は加速器では出来ない素粒子物理学の研究をする所と漠然と思っていたので(もっと後になって、高エネルギー宇宙物理の分野をもっとやってよい、と思うようになった)、三宅さんは素粒子をやっていていいと云って呉れたが、赴任にあたって自分として努力した目標は宇宙線研で陽子崩壊の實驗をしてほしい、そのために尽力したい、という事だった。陽子崩壊の研究會等も何度か行なった。

当時、宇宙線研究所の研究は各1講座程度の4つの部で行われ、ミューニュー部は北村崇さんが主任で 800 トンの鉄芯電磁石装置 (ミュートロン) を完成しミューオン観測を行っていた。空気シャワー部は鎌田甲一さんが主任で明野観測所に 1km2の空気シャワー観測装置を完成し空気シャワー観測を始めようとしていた。エマルション部は湯田利典さんが主任で富士山頂に多層の鉛と X 線フィルムからなる100m2 のエマルションチェンバーを建設しようとしていた(私はエマルション部に属した)。一次宇宙線部は近藤一郎さんが主任として乗鞍観測所での諸実験や山越和雄さんらの鋸山(千葉県)の低バックグラウンド実験室での宇宙塵研究などを束ねていた。

そのほか、三宅三郎所長は大阪市立大学を率いてインドのコラー金鉱(KGF: Kolar Gold Field)で宇宙線研究を行っていた。この実験と、ボリビアのチャカルタヤ山 (標高 5300 m) における東工大の菅浩一さんを中心とした空気シャワー実験、及び同山における早稲田大学の藤本陽一さんを中心としたエマルションチェンバー実験と合わせて、3つの実験は海外3件と呼ばれていて、宇宙線研究所が継続的に予算を得て研究が行われていた。三宅さんらの KGF 実験は 1965 年に世界で初めて (Reines & Crouch より2週間早く) 大気ニュートリノを観測した実績を持っていた。このほか、須田博英さんは 115In を用いた太陽ニュートリノ観測を検討していた。尾形健さんは米国の高橋義幸さんらと日米共同のJACEE 実験で気球搭載のエマルションチェンバーを用いた高エネルギー宇宙線の直接観測を行っていた。

このように、当時の宇宙線研究所は教職員は少人数で予算も小さかったが、唯一の宇宙線の共同利用研究機関であり、全国の多数の宇宙線研究者が頼りにしていて、多様な研究を支えることが期待されていた。

そのころの宇宙線研究所の大きな問題に任期制があった。東大原子核研究所、東大宇宙線研究所、KEK の隣接3分野の共同利用機関は共通の考え方として、(所長など研究に専念出来ない官職は例外として)、全教員の任期制を採用していた。宇宙線研究所は所長以外の全教員の任期は7年で、宇宙線研究所には原子核研究所の宇宙線部から改組に伴って引き続き宇宙線研究所へ移ったため、当初の任期を大幅に過ぎてしまった教員が多かった。そのことが教員に重くのしかかって精神的に負担を与え、研究に関することですら、所内の者が所外の共同利用研究者に対して自由で闊達な発言をすることを遠慮し窮屈な雰囲気を作っていた。特にその傾向は私の属したエマルション部に強く、少数だが声の大きな共同利用者が、自分に対立する所内の発言者には任期制を持ち出して牽制するという、およそ理性ある物理学者にありえない行動がまかり通っていた。日常的にこの問題が意識される雰囲気があり、私が赴任した時にエマルション部の委員会(エマルション専門委員会と呼ばれた)で 受けた最初の質問は「任期制をどう思うか?」というものであった。私は学習院時代、原子核研究所時代、KEK 時代を通じて運よく任期は守ったものの、当時の制度には疑問があったので、「それは難しい問題です」とだけ答えたことを覚えている。

重要な問題として、当時の宇宙線コミュニティーは面白い仕事もあるのだが研究成果に対する評価の仕方が学問的に適正とは云へなかった。かつての日本の宇宙線研究は、戦前の仁科芳雄さんらのミュー粒子の質量の決定、戦後は西村純さんの多重発生の横向き運動量一定の発見、三宅三郎さんの大気ニュートリノの初観測、福井崇時さん・宮本重徳さんのスパークチェンバーの発明、丹生潔さんのチャーム粒子の発見、など、歴史に残る成果を上げていたが、その後、それらの分野は加速器実験に移って精密実験が行われ、宇宙線研究で出来ることは少なくなっていた。研究成果に対する評価方法が遅れてしまったのは、その事情の反映かも知れない。良い研究とは何か、誰が良い仕事をしたのかと云う判断基準に対する合意意見の形成が無いままに過ぎてしまったのだ。其の事がまた、宇宙線で「良い仕事」をするのを妨げてきたとも云える。

一例を擧げれば、何か「新しい現象を見付けた」場合、統計的な信頼性に言及することは当然だが当時の宇宙線研究では、特異な宇宙線現象を固有名詞を冠して呼ぶ許りで、それが本当に特異なのか、やや稀なだけで普通の現象なのかの判断も非常に曖昧だった。実際、今見るとき、当時特異な宇宙線現象とされ固有名詞を冠した現象は、H quanta, Centaurus, KGF event など沢山思い出せるのだが、その後の時間を経ても生き残ったものは僕は知らない。唯一の例外は丹生さんのX 粒子であろうか、これは、数年後には特異現象ではなくチャーム粒子として加速器で精密に確認された。他の研究者、就中 comminity 外の人を納得させるには信頼性を明示するのは当然の要求であるが、このような要求に応えようとするような努力も少なかったと云へる。

これは必ずしも日本だけに限らない。外国でも遅れていて、例えば simulationの手法を本格的に活用しようしたのは笠原昌克さんらが世界でも初めて始めたことである。このような状況のもとでは、仕事の学問的意味のある評価は生まれにくい。(高エネルギー実験の simulation に比べて、宇宙線の simulation は、入射核種の多様性、超高エネルギー相互作用の不定性、宇宙線実験で重要な役割を果たす leading particle のより正確な扱い、桁違いに多い増殖粒子数など、当時の計算機の能力では、より難しい面があったことも一因である。)

適正な評価の困難さと相俟って、過剰な「民主主義」が重なって、研究とは何かも危ぶまれる状況があった。例えば、私がまだ原子核研究所理論部にいた頃で、まだ三宅さんが所長になる前だが、宇宙線観測所に専任所長を設ける時(※2)所長の選考はCRC実行委員会が担うことになっていたという。大学紛争の熱も冷めておらず、中国の文化大革命の影響で毛沢東語録も読まれた時代だが、CRC 実行委員会の委員は大学院生も含めた宇宙線研究者の投票で選出され、今では考え難いことだが、委員会が選んだ初代専任所長候補者は博士号も未だ持たない 30 代の若手だったという。そして、結局その決定はご破算になって、改組後の初代所長は宇宙線物理の重鎮・三宅三郎さんがなった。当時、エマルション部に残っていた古いソファーは所長予定者だったその若手が研究所に購入を指示して買ったものだ、と聞いて話が現実だったことに驚いたものだ。その出来事に象徴されるような、僕の思う学問第一主義とは異なる雰囲気が、僕が赴任した 1979 年にも未だ残っていた。

(※2)1953 年当初の観測所初代所長は平田森三氏、二代、三代は菊地正士氏と野中到氏が核研所長と兼ねた。野中氏は核研所長を退任後も 1970 年迄観測所長を続けている。その後、核研宇宙線部の菅浩一さんを経て、1972 年に三宅三郎さんが初代専任所長になり、従来乗鞍の共同利用のための技官と事務官だけであった観測所に、研究部門が設けられて行く。宇宙線観測所固有の部門に新2部門と核研からの3部門を合わせ、宇宙線観測所から 6 部門 1 附属施設を持った宇宙線研究所として改組されるのは 1976 年 5 月 25 日の「国立学校設置法」の改正による。

陽子崩壊実験は理論家では KEK の菅原寛孝さんが中心になって必要性を説き、国内の実験家では東大理学部の小柴昌俊さんや宇宙線研ミュートロングループが夫々観測方法を提案し、機が熟し、予算を申請することになった。大統一理論の研究の一環ということで、 小柴昌俊さんが代表の Kamiokande 計画、大阪市立大学の尾崎誠之助さんが代表の END 計画 (Experiment on Nuclear Decays)、三宅三郎さんが代表の KGF の増強の三つの実験計画と、KEK の菅原寛孝さんが代表の理論研究を加へ、四つの研究計画とし、総代表者は三宅三郎さんで科研費を申請した。この頃は特定研究領域という分類しか大型科研費はなかったので、そこへ申請した。1981 年度の科研費の申請を 1980 年に行うにあたっては、高橋嘉右さん、故須田博英さん、私の3人が幹事になり申請書を準備した。原稿は主に須田さんと私で相談して書いたが、Kamiokande 計画については、たとえ陽子崩壊が見つからなくても、大きな予算を使う実験だから多様な可能性を持った装置であることを説明する必要があると思い、大気ニュートリノの振動探索や、超新星ニュートリノ観測の可能性も書いた。後にそれらが実現したことは喜ばしい限りだ。

しかし、このテーマは当時の領域申請という主旨に合わないとされ、最初の年は却下された。当時領域申請というのは一つの大分野に多くの研究者が集まって、研究を遂行するような主旨であり陽子崩壊実験は主旨に合わないと言われた。審査の久保亮五さんは申請は主旨に合わないが、緊急で重要なテーマの研究への支援も必要性がある、と言われたという。実際、翌年に文部省は特定研究を (I)(II)の2つに分け、このような研究も特定 (I) として入るようになり、西島和彦さんの応援も得て、1982 年 7 月には同年度の特定研究領域の内定通知が来た。それに先立ち 1981 年 7 月には三宅所長と三井金属鉱業社長との間で実験の協力の協定が結ばれるなど準備体制は整えられていった。科研費申請にあたって、三宅さんに総代表者になって頂くことは研究を分担する申請者全員の要請であったが、申請に関わらない CRC 実行委員会の委員達から、研究所長が特定の大きな研究の代表者になることに疑義があると批判され、1980 年 12 月 15 日付で CRC 実行委員長名で三宅さん宛てに批判の現状(疑義ありとする者6名、CRC で議論すべき問題ではないとする者4名)を伝える公式文書が出された。三宅先生は自らは批判の盾になりながら、非加速器物理の推進に尽力された。

採択に当たっては、国内に2つの陽子崩壊探索実験は無理と言うことでEND 計画は落ち、Kamiokande、KGF,理論の3本柱で出発することになった。END計画は準備の段階でマンパワーが弱かった。END實驗は neon flash tube を並べて video冩眞を撮り現象のトポロジーを解析しやうとするもので、KEK の美甘昭司さん等が一所懸命になってゐたが仲々見通しが立たなかった。是に引換へ Kamiokande group のものは計算機による解析に適しており、とりわけ大学院生の有坂勝史君のやっていたシミュレーションが皆に強い印象を與へたようだ。

Kamiokande の予算の分担は、実際はもっと入り組んでいるのだが、大まかには、光電子増倍管やエレクトロニクスは東大理学部で 2.3 億円、水タンクや純水装置が KEK で 1.1 億円、空洞掘削が宇宙線研究所で 1.8 億円となっていた。菅原さんは地下施設を KEK で分担するつもりでいたが、元 KEK 管理部長で文部省に戻っていた重藤學二さんの示唆で、地下施設は宇宙線研究所に責任を持たせる事になり、KEK の分担は水タンク、純水装置などに限られることになった。須田さんはKamiokande を宇宙線研も加わってやろうと云ふのを始めから考へてゐたと思ふ。宇宙線研では須田さん逹が恐らく太陽ニュートリノ観測を目的に地下施設を申請しようとして書いてゐたのだが、この申請を神岡施設の申請として書き直す事となった。此様にして神岡地下施設は結局宇宙線研の施設と云ふ事になっていく。

Kamiokande の準備段階で、須田さんに提案して、ひょっとして僕が役に立ったかもしれないことは、タンクへ光電子増倍管を設置する方法として、梯子を使わず、北海道のサイロ内部の修理で行われる水を入れながらの作業をヒントに、神岡でも、水を入れながらボートで設置したほうが安全ではありませんかと提案したことと、もう一つチェレンコフ光の水の減衰長の測定をレーザー光を用いて水の入ったパイプで行い、パイプ壁での反射のためか苦労しておられたので、宇宙線ミューオンのタンク中のチェレンコフ光測定を使って減衰効果を見る方が確実ではありませんか、と提案したことだった。あるいは須田さんもすでにそう考えておられたかもしれない。

Kamiokande は 1983 年 7 月には観測が始まった。陽子崩壊は発見できなったが、超新星ニュートリノ観測という特大の成果を上げた。超新星ニュートリノ観測の直後、神岡のデータの箝口令が解けて論文を投稿する日の朝、京大基研の福来正孝君から超新星ニュートリノの解析をしようという電話があって、京都へ行きわずか1日で論文にまとめ、投稿したことがあった。そんなことは後にも先にもこれだけだが、また、福来君の仕事の速さにも驚いたものだ。このほか、Kamiokandeは大気ニュートリノ振動と解釈される νe/νµ ニュートリノ比の異常の観測、太陽ニュートリノの観測、超対称模型による陽子崩壊の上限の設定、など大きな成果をあげた。

三宅さんのKGF の實驗は深さを生かし神岡の十分の一位の予算で装置の増強を行ったが, 結局粒子の飛跡の到来方向を判別出来る迄の増強が出来なかった。それがあればニュートリノ振動など多様な観測ができたかもしれず殘念であった。

僕の宇宙線研の任期は 7 年と云ふ事で 86 年 5 月に東工大に移った。理学部の磯親先生に呼んで頂いたのだった。しかし 87 年 2 月 11 日の宇宙線研究所の運營委員會で次期所長に選ばれて仕舞った。當時の所外の運營委員には、小柴昌俊さん、三宅三郎さん、山口嘉夫さん、長谷川博一さん、太田周さん、佐藤文隆さん、野村亨さん、山田作衛さん、私、がいた。初めは神奈川大の櫻井邦朋さんも候補に上がっていたことをご本人が何かに書いておられたが、選考に上がった当事者は運營委員會を退席する習慣なので、自分は同席しておらず、詳しい議論は知らない。

この決定の運営委員会の後、小柴先生は私に、これから所長として木舟正さん逹を助けて、小柴先生の提案した空気シャワー実験をやるのが良いと言われた(小柴先生の提案とは、高エネルギー宇宙線原子核が太陽光によって giant resonanceを経て多数の粒子に光分解し多重コアの空気シャワーとなって降る現象を観測することで高エネルギー宇宙線の組成を調べるという提案だった。実験方法は永野元彦さんらが提案している 100km2 の広域空気シャワー(後の AGASA)と面積は同じだが、測定器をシンチレータではなく水タンクにし、測定器の間隔を 1km ではなく 250m に狭めると云うものだった)。

此頃宇宙線研はガタガタになっていた。前兆は 2 年前の 1985 年 11 月に行われた「宇宙線研究将来計画シンポジウム」だった。24 件の提案の多くは未だよく練れていない計画で、それらに適切な評価や整理も行はず、物理的に内容があるとは言えない多くのコメントや、中には悪口や個人攻撃に類するコメントまで付けた「Proceedings」が宇宙線研究所の出版物として出された。表紙の色から「赤本」と呼ばれたが、恥ずかしいことだった。

宇宙線研究所の失態は新聞にも取り上げられ、毎日新聞の 1987 年 3 月 31 日の記事は紙面の半分を割いて宇宙線研究所や宇宙線研究者の紛争と言う報道を行った。また新聞「赤旗」の 1987 年 5 月 10 日の記事には、文部省の審議会が「附置研究所の現状分析」と題して作った文書の内容が暴露され、それによれば審議会は全国立大学附置研究所 71 機関の調査を行い、東大宇宙線研究所は他の 17 機関と共に「現状のままでは存在意義に乏しく組織の大幅な改変を要する」というランクに分類されていた。さらに宇宙線研究所に対する現状分析の要点には、「研究分野の再編成の必要がある。数年先には独立の研究所として認めるかどうか問題である」とあって、改組して他の研究機関に吸収する方向が示唆されていた。

おそらくこの結果は既に前年度には各研究所に通達されていたのだろう。前年度の 1987 年の1月には「附置研究所の見直し」という文書がある(文部省所轄並びに国立大学附置研究所長会議の資料か)。おそらく、上記の審議会の結果が前年度或いはそれ以前にすでに各所長に伝えられ、それに対する対応を解答することも求められていたのだろう。それによれば、宇宙線研究所に対する「指摘事項」には「高エネ研の改組問題と関連して検討を進める」とあり、これは審議会の現状分析の要点と符合する。それに対する宇宙線研からの「対応状況」には、「『学術会議物理研究連絡委員会原子核専門委員会』の検討(61 年 2 月委員長私案)にもとづき、原子核分野の研究活動を、今後さらに強力に推進し、かつ、研究所の活性化を図るために、既存の共同利用機関を改組する計画が検討されている。宇宙線研究所としては、従来の研究分野からさらに発展したより広い分野で新しい計画を推進するために、将来計画検討小委員会で検討を行っている。この検討の結果と学術会議での検討の発展とあいまって研究所の将来計画策定の作業を進める。」とある。

この文章は、それ以前にさかのぼっての解説が必要だろう。学術会議では、物理研究連絡委員会の下にある原子核専門委員会の中に、宇宙線研究所を他分野の研究者も交えて“IAP” (Institute for Advanced Physics[仮称]) に改組するという検討を行うための Working Grouup が設けられていた。委員には近藤所長のほか、早稲田大学の藤本陽一さん、埼玉大学の岬暁夫さん、宇宙線研究所の湯田利典さん、などがいたと思う。一方、宇宙線研究所では共同利用運営委員会における小柴委員からの提案にもとづいて 1986 年 10 月に、近藤所長が「宇宙線研究所将来計画検討小委員会」を設けた。長島順清さんを委員長として、折戸周治さん、江尻宏泰さん、佐藤勝彦さん、福来正孝さん、藤本眞克さん、千葉順成さん、永野元彦さん、松岡勝さん、それと私の 10 人で構成され、翌年私が所長になったため抜けて柳田昭平さんが入った。

この委員会は宇宙線研究の将来の重要な分野として、「高エネルギー宇宙物理」と「非加速器素粒子物理」を柱として、より広い視野で検討を行うことが期待された。この委員会の当初の近藤所長の狙いは、学術会議の原子核専門委員会を中心に検討している IAP を念頭に「この小委員会は IAP で実現を期待するプロジェクトを検討し」「IAP 実現努力の基礎となるように」(「検討小委員会の委員推薦について(依頼)」より)と考えて近藤所長が設立したものであった。

従って、上記の附置研究所に関連した文書の改組とは、IAP のことであり、検討とは原子核専門委員会の IAP のWorking Group による検討と、所内に作った将来計画検討小委員会による検討を指している。(ただ IAP の Working Group に所長就任後出席したときの議論は宇宙線研究所将来計画検討小委員会の議論ほどには学問的ではなく失望したことを覚えている。)

このような宇宙線研究所は解体するという前提で議論が行われている荒れた雰囲気の中で、所長候補の決定には驚いた。三宅さんが 84 年に 12 年間の所長を辞めた後、鎌田甲一さんが 2 年、近藤一郎さんが 1 年と短い期間が続いた後だ。東工大では助手も付けて貰える直前まで話が進んでおり、着任して未だ1年で辞めては東工大とりわけ磯先生にも迷惑がかり、研究所へ戻ることはとんでもない話に思えたので、配達証明まで付けてお断りの手紙を近藤先生に提出した。しかし、このままでは宇宙線研究所はほぼ消滅に向かっていることは気になっていたところへ、三宅先生や太田周さんに説得され、有馬先生にも言われて、考えなおした。宇宙線研究所に戻り、スーパーカミオカンデをやるしかあるまい、スーパーカミオカンデを宇宙線研究所で実現できれば、宇宙線研究所が救われるとともに、日本の非加速器物理の発展に貢献できるだろう、と思った。戻る決心をして結局 87年 5 月 1 日付で宇宙線研所長に着任した。僕が戻る迄の間は棚橋五郎さんが所長事務代理を努めた。

此頃 Super Kamiokande は計画は中々予算化出来ていなかった。人に聞いたところでは、小柴さんは先づKEK に話を持掛けたが、西川さんと条件の調整が出来ず進まなかった。阪大で遣らさうとしたが阪大は宇宙物理講座の新設を優先する爲にこれも駄目、富山大にも話を持掛けたが此方でも小柴さんが赴任するくらいでないと出来ないようで話が進まず、京大の基研に話を持って行こうかと云ふ事もあったようだ。

当時の所長は一年間だけ努めた近藤一郎さんだが、近藤さんは将来計画検討小委員会の立ち上げと共にもう一つ重要な事を行なった。即ち当時、宇宙線研究所の最重要決定機関である共同運営委員會のメンバーは、所内委員 4 名の他は、実行委員会委員13名全員に宇宙線分野以外の委員3名を所外委員として加えたメンバー構成になっていたのだが、近藤さんは CRC の推薦委員を4名に抑え、広く他分野と協力できるような改変を提案したのだ。藤本さん、岬さん等は此の改変に反対だったのだが、票決すれば負けると読んだのか、その場から退席してしまったのだ。かくして、近藤提案は其の儘通ってしまった。その結果として、小柴さん他が共運委に入り運営が学術的になったと云う意味で健全化した(※3)。

(※3)共同利用運営委員会の構成の改正は長く懸案だった。1976 年に東大評議会で承認された同委員会規定には、委員会は研究所内外ほぼ同数の約14名の研究者で構成することになっている。しかし当時の構成は CRC 実行委員13名の所属に依存して、所内4名、所外16名の計20名(+所長)の場合から、所内7名、所外13名の計20名(+所長)の場合まで、いずれも、総数と所内外の構成比の両方で説明しにくい構成だった。三宅所長は度々、同委員会に構成の変更を提案している。三宅さんの原案は4部の夫々に所内外2名ずつの委員を割り当て、関連他分野の委員3名を合わせ所内8名、所外11名、計19名(+所長)とするものだった。これでも委員会で賛成が得られず継続審議が続いたのだから、近藤所長の「宇宙線分野4名、関連他分野4名、東大理学部1名、各部主任計4名(+所長)」と言う案は筋では正しい方向だが CRC の一部に強い反発が生じた。そのことも含めて CRC の対立は近藤所長時代の後も続き、CRC と宇宙線研究所だけでなく、後には原子核専門委員会も巻き込み、一部の新聞も取り上げることなった(1988年4月5日、毎日新聞記事など)。これらの共同利用のルールを守る改革には色々と痛みを伴った。長い間、文部省からの正式の共同利用研究経費約 1000 万円/年の何倍もの使用申請が諸大学から出されそれに応じていた慣行から変わるには、各大学が自ら科研費をもっと申請する必要性が増したし、時には科研費の総合研究の種目を宇宙線研が主導してでも確保する必要が生じた。

スーパーカミオカンデの実現方法は、KEK の菅原寛孝さんに相談相手になっていただいた。菅原さんは、「スーパーカミオカンデは KEK でやるしかなかろうと 思っていたが、君が宇宙線研究所でやるというなら、応援しよう」と言ってくれた。そして戸塚洋二君、中村健蔵君に宇宙線研究所に来てもらう必要があるだろうと言われた。

それで小柴さんのいる理学部へ行き、宇宙線研を Super Kamiokande のホストにする事と戸塚君を宇宙線研に割譲して貰ふ様にお願いに行った。これには菅原さ んの口添もあり、戸塚君にもすでに菅原さんから話が行ていた。小柴さんは始めはネガティブだったがその主な理由は宇宙線研は 30 人しか居ない研究所で、100億の計画をやるには小さ過ぎると云ふ事だった。いろいろと議論する内に「やってみるか」と云ってくれた。その上、予算配分に関係する重要な学者のリストを教えてくれた。主な人は、早川幸男さん、小田稔さん、古在由秀さん、山崎敏光さん、有馬朗人さん、西川哲治さん、長倉三郎さんだった。此等は 87 年 3 月頃の話で僕が未だ正式に所長になる前だ。各先生のところへは後に、戸塚君や中村君と陳情に行った。また、その後、世界のノーベル賞クラスの学者逹からスーパーカミオカンデの建設の重要性を訴える手紙 5 6 通を有馬総長あてに出してもらった。此は小柴さんを通してやって貰ったのだが、此の事をお願いに小柴さんの自宅へ行ったとき、そんな頼みは何故もっと早い時期にやらないか、と怒られた。それでも、スーパーカミオカンデの説明と意義を絵1枚、文章1枚にまとめて持ってきなさい、と言って引き受けてくれた。この推薦の手紙のコピーは文部省にも渡っていたので、後に 1990 年に科学新聞に数回にわたってスーパーカミオカンデは成果が出ないだろう、という国内の一部の人達の建設反対意見が載った時も、あまり心配しなかった。それは文部省に学問上の意義に関しては安心して予算化してもらう上で役に立ったと思う。

中村健蔵君の属するKEK 所長の西川哲治さんのところに行くと、菅原さんの根回しがすでにあったようで、快く了解してもらえた。西川さんはそのあと、大変に応援してくれた。学術会議では、西川さんは原子核専門委員会の委員長として、まず、宇宙線研究所がスーパーカミオカンデの建設に向かうのであれば改組する必要はなくなったので、原子核専門委員会の下にある IAP のWorking Group は解散しよう、と言って解散してくれた。さらに、KEK、東大原子核研究所、東大宇宙線研究所の3研究所がスーパーカミオカンデ実現のために協力する、という3所長覚書を作ってくれた。この覚書にもとづいてKEK はスーパーカミオカンデに人員を割いてくれることになり、大変にありがたいことだった。原子核研究所は計算機の共同利用や田無の敷地の問題に協力してくれることになり、東大駒場の宇宙科学研究所跡地の 600m2 のプレハブを田無に移設し神岡グループのスペースを確保できた。覚書を結ぶにあたっては KEK は文部省の直轄研究所であり、宇宙線研究所は東大の附置研究所であって格が異なるため、格が対等な東大とKEK の間に了解が必要だった。それで、東大の有馬総長特別補佐と事務局長、及び KEKの所長と事務局長の両方の了解を得られる文言を決めるため、筑波と本郷を往復したが、まだ若かったので全く苦にならなった。有馬先生は、2年後に東大総長に選ばれた後も、東大をお辞めになった後も、様々にスーパーカミオカンデを応援してくれた。少し話は小さいが、宇宙線研究所の所長にはそれまで所長手当がつかなかったが、つけてくれるようになったのも有馬先生が総長の時である。これで他の東大附置研究所と同等になった。

初めは非加速器物理も加速器に関連していると思い、文部省の加速器部会で取り上げてくれるよう、働きかけたのだがうまくゆかず、宇宙ニュートリノ観測の面を強調して、小田稔先生が座長をされる宇宙部会へお願いした結果、hearing に呼ばれ、答申に入れて建設を進言していただいた。この変更は、菅原先生の示唆を受けたものだ。予算や人員を獲得する経緯はいろいろのことがあったが、そして何人もの方々に、特に菅原さんには大変お世話になったが、言及した方々にご迷惑がかかるかもしれないので、詳しくは語らない。幸い、1990 年度に調査費、 1991 年度に建設費が付き神岡グループの奮闘で 1996 年3月完成した。1996 年度には運転経費と必要人員もついたので僕の任務は済んだと思い、1997 年 3 月所長を交代した。

学術会議では、西川先生の取り計らいで IAP 構想が消えたため、当初 IAP への提言を目的とした宇宙線研究所将来計画検討小委員会は、純粋に宇宙線研究所の将来計画として提言していただくことに目的をやや修正した。1987 年 4 月に中間報告、6 月に最終報告が提出され、非加速器素粒子物理、高エネルギー天体物理、重力実験、関連理論を含む幅広い分野を推進すべきこと、スーパーカミオカンデによる陽子崩壊と天体ニュートリノ観測を研究所の最重要課題として推進すること、高エネルギーガンマ線天文学を優先的に推進し、統一性のある具体案がない段階では点源探索を行い、点源確認後は統一性のある観測体系を確立することが望ましいこと、学問の発展、R&D の成果に応じ、柔軟で機動的な課題採択を行うとともに、独創的・萌芽的な中小課題を奨励する方法を確立すべきこと、などが提言された。

所長就任直後に名工大で日本物理学会が開かれ、その際、宇宙線分野の大先輩で名大学長でもある早川幸男先生に御挨拶に行き、よろしくご指導くださいと言うと、「研究所の教員全員の辞表を取りつけなさい、そうしたら応援してあげられる」と言われた。これが当時の宇宙線研が外からどう見られていたかを象徴する御意見だった。しかし、約 10 年後、早川先生にお会いしたとき、「1987 年に言われたことは実行できませんでした。」と申し上げると、「研究所は良くなったから、良いでしょう」と言ってくださった時は、とてもうれしかった。

一方、有馬先生の助言は現実的だった。「人事を全部刷新することは難しいでしょう。2割で良いから優れた人をとりなさい。2割いれば大丈夫だよ」と言われた。現実には、全体の2割ほどの、スーパーカミオカンデの活発な人達に来てもらうと、神岡グループに刺激されて、他の研究グループも活発になって行った。

戸塚君と中村君を宇宙線研に呼ぶにあたって彼らの出した要求は400 平米の實驗室の確保、助手 2 人の確保、と大學院生をマスターコースより採 れる様にする事の三点であったので、600 平米のプレハブを設置し、教授ポスト2つに助手2人を充てる非常手段をとり、物理のコース会議で修士課程からの大学院生受け入れを認めてもらい、要件は滿される様にした。

有馬さんが予算は 100 億を越すなと云ふので 100 億に抑へた。此爲 veto 用の外水槽は予算外となって仕舞ひ、戸塚君は最終的には共同研究者として入ったアメリカ側に外水槽の光電管設置を頼む事になった。

AGASA が予算化されたのは補正予算が付いたためだが、森総長が補佐会議を明野観測所で開きたいと言われ、急遽準備して、棚橋さん、永野さん、木舟さんらが御一行をお迎えした。総長の御訪問には良いことがあるのでは、と期待していたら、広域空気シャワー(AGASA)の予算が付いた。当時総長特別補佐の有馬先生にお礼に行くと、宇宙線研究所はスーパーカミオカンデの予算が下りるまで、あるいは完成するまで時間がかかるだろうから、それまでに出来る事がないと大変だろう、と言われた。また、明野で会った研究所スタッフはやれそうだ、と判断したということで、ありがたかった。一方、短時間に 100 か所の地主の了解をとりつけ AGASA を建設した永野さん逹、明野グループの奮闘も立派だった。

低バックグラウンドの実験を行う鋸山のトンネル施設は原子核研究所の故田中重男さんの使われていた施設を宇宙線研究所が引き継いだものだが、田無から遠くゲルマニウム検出器に定期的に液体窒素の交換に行くことも大変だった。山越先生は自費で近くに小屋を建てて利用しているほど鋸山施設への情熱が強かった。山越さんが亡くなられてからは、鋸山施設程度の低バックグラウンドは必ずしも鋸山のトンネルで無くても、地下室を整備すれば同等の環境が作られるので、柏の地下室に移転した。引っ越すに当たって、エレベータ付きの立派な地下室を大橋英雄さんが設計した。有効活用が望まれる。

もう一つ、重力波の低温鏡についても思い出がある。後発の日本が重力波観測実験で特色を出すには、物足りないと思へた。そこで鏡の熱振動を減らすことを考えてみた。かつて、KEK の山本明さんが宇宙線実験用に開発した軽い超伝導磁石をヒントに考えた。と言うのは、かつて福来君と中性子振動に関連して宇宙線反陽子を調べたとき、まだ良い実験結果が無く、日本で測定できないかと思った。 KEK 時代からの知り合いである超伝導磁石の専門家・山本明さんに相談に行き、三陸の日本の気球基地で上げられる気球の荷物は高々450kgと聞いていたので、その重量の範囲で超伝導磁石が作れないかと相談した。すると山本さんは1年後に驚異的で独創的な気球用の超伝導磁石を設計して持ってきてくれた。高純度のアルミニウムが低温で熱伝導性が高いことを利用して、超伝導磁石を直接 He で冷やすのではなく、He で冷やした細いアルミの針金で冷やすというのだ。すると磁石は超薄型となって運動量測定がソレノイド磁石の中で行えるため有効面積が2桁も大きくなるというのである。西村純さんの意見を聞くために山本君と一緒に訪ねると、西村さんは感激してこのアイディアをspace station に使いたいと山本君を引き入れた。そのため宇宙線研でこのアイディアを生かし切ることは出来なかったが、space station の話が消えた後、山本君は折戸君と BESS 実験を始めることになった。

このアルミを思い出して、重力波測定の反射鏡の熱をアルミの糸で除けるか否かの計算をすると、レーザーの熱程度なら細いアルミの糸でも外へ運び出せることが分かった。そこで、黒田和明さんに低温鏡を使った重力波実験をアルミで行ってはどうかと相談した。黒田さんも計算して見ると熱が除けそうだ、ということになったようで、KEK と一緒に検討を始めた。彼らは実験してみるとアルミは熱伝導は良くても振動の Q 値が悪いという無理があり、結局アルミの代わりにサファイアを使うことで、Q を悪くせず熱を除くことに成功した。アルミを使うことは無理でサファイアに到達するまでの寄り道ではあったが、鏡の熱は細い糸でも取り除けるという確信はひょっとするとお役に立てたかもしれない。とにかく、研究所の実験のことで頭がいっぱいだったころのことである。色々な思い出があるが,ここら辺で話を止める。

あとがき

何年も経って今読み返すと、研究所の重荷から解放された安堵からか、自分の身の周りばかり書いて、読まれる方に誤った印象を与えかねない。カミオカンデの建設に強力な力を発揮された今は亡き須田英博先生のことは、もっと書いておけばよかったと思います。又、スーパーカミオカンデが出来るまでには、有馬朗人先生や久保亮五先生のご指導は勿論、現実には、所内のポストや予算の配分について、例えば教授ポストを使った助手の採用など様々なご無理なお願いに対する教授会の先生方の全面的なご支援や、文部省、東大事務局、宇宙線研究所の優れた事務系の方々から頂いたアイディアやご援なしには、何もできなかったことは明らかでした。私が研究所の柏移転に際して、事務の統合改組にちょっと抵抗したのは、事務のご支援がいかに有益で強力かを知って、これが続いて欲しいと願った為ですが、あきれられました。改組してもご支援が減ることはないことは、今や明らかです。

また、全体と測定器系の戸塚洋二さん、掘削やタンクなどインフラは中村健蔵さんを中心として、カミオカンデグループの強力な活躍が事業を進めたことは言うまでもありません。

又、安全な空洞建設にご指導頂いた東大工学部の山口梅太郎、小島圭二、西松裕一の諸先生方も忘れられませんし、準備調査にご協力いただいた長嶋順清先生、などその他、多くの先生方から頂いたご支援には、深く感謝しています。

また、カミオカンデ以前の研究所の負の側面を書きすぎたきらいがありますが、研究所が成果を上げて評価が上がっても、向上が遅くなり停滞すれば、いつまた同様な状況が訪れるかもしれない、という自戒の念も込めて書きました。

宇宙線物理の背景を含めて、もっときちんと書くべきでしたし、いつか書く機会があればもっと詳しく書きたいと思いますが、ここには、主旨を良くわきまえず、乱暴な記述になったことをお許し下さい。

はじめに/ 小柴昌俊「若き日の研究を振り返って:Kamiokande を始める迄」 / 荒船次郎「宇宙線研究所とKamiokande」 / 中畑雅行「Kamiokandeの頃(1)」 / 梶田隆章「Kamiokandeの頃(2)」