東京大学宇宙線研究所長 梶田隆章教授 2015年ノーベル物理学賞受賞

回顧録

Kamiokandeの頃(1) (※1)

内容についてのお問い合わせは受け付けておりません。また、二次配布や転載は一切お断りさせていただきます。

(※1)聞書き(2009 年 11 月)福来正孝。梶田隆章君による若干の修正が入ってゐる。亦、中畑君によって補足拡充されてゐる。最終稿は 2011 年 9 月 22 日。

中畑雅行

1981 年 4 月に学部4年生で小柴研究室に配属になり、1982 年4月に大学院生 (M1)になって、Kamiokande 実験の準備に参加した。学部4年生ではKamiokande site で宇宙線 muon の強度がどのぐらいになるかを計算した。大学院修士課程に入ってからは、オンラインデータ収集システム、シミュレーション、データ解析ソフトウェアを担当した。Kamiokande は 1983 年 7 月に完成し、データ取得が始まった。建設は、現場責任者の須田英博氏のもとで、実験メンバー10名程度でおこなった。特に、1983 年 3 月から 6 月までの期間は光電子増倍管の取り付けのために須田英博氏、鈴木厚人氏(当時、小柴研助手)、有坂勝史氏(僕の3年上)、梶田隆章氏(僕の1年上)、中畑、瀧田正人氏(僕の1年下)はほとんどの期間、茂住に滞在した(※2)。

(※2)Kamiokande 実験創始期の歴史に関しては A. Suzuki, Kamiokande: Historical account, in Physics and Astrophysics of Neutrinos (eds. M. Fukugita & A. Suzuki), Springer Verlag 1994, p. 388

検出器のシミュレーションプログラムは有坂氏が最初に開発し、1981 年 1 月に修論としてまとめた(※3)。1982 年に有坂氏のシミュレーションの変更と改善を僕が引継いだ。事象生成シミュレーション(具体的には大気ニュートリノのシミュレーション)は素粒子論研究室の西村明俊氏が原型を作った。しかし、僕には不満足に思えたので改良に手を着けた。改良は 1983 年に始め、1984 年 1 月に途中経過を修論としてまとめた。ニュートリノ反応の素過程の部分は修士論文の頃までにほぼ完成したが、パイ中間子の原子核効果の部分は矢崎紘一氏、桝谷敬一氏 (矢崎氏のもとで optical potential を使った計算で PhD を取った人) にいろいろ聞きながら1984 年に改良した。このシミュレーションでは、低エネルギー領域(数百 MeV)でも使えるように酸素核中のFermi motion、Pauli principle、そして、相互作用後の lepton mass も考慮した。シミュレーションが完成したのは博士課程の2年の時で JPS Jounal 論文としてまとめた(※4)。

(※3)但しこの時 Kamiokande 検出器は最終的な形である円柱状ではなく、未だ立方体状のデザインを考えていた。See, A. Suzuki, in Physics and Astrophysics of Neutrinos, op. cit. Figure 4.
(※4)M. Nakahata et al.   J. Phys. Soc. Jpn 55, 3786 (1986)

1984 - 5 年頃から大気ニュートリノの事象率がシミュレーションと合わない事が見えつつあった。それは、1 ring の事象サンプルの中でμ→ e 崩壊が見えている事象の割合が、実験データはシミュレーションと比べて小さい値を示していた。μ→e 崩壊の検出効率の見積もりが間違っていないかなど、いろいろ調べたが答えはみつからなかった。(ちなみに、当時は粒子識別の解析ツールがまだあまり良くなかったことや詳細な議論ができるほど統計がなかったため、1 ring のμ、e それぞれの数は統計の範囲内ではシミュレーションと合っていた。)1986 年頃、梶田氏が ring topology を用いた粒子識別を詳しくやり始めた。梶田氏が作った粒子識別プログラムを使ったところ、1 ring event でμ-like と同定された現象のうちμ→ e 崩壊が見えている事象の割合が、見積られたμ→ e 崩壊検出効率と良くあった。しかし、梶田氏の粒子識別を使った場合には、データの1 ring のμと e の数の比がシミュレーションと合わないという「問題」が生じた。1987 年頃には、梶田さんは neutrino oscillation ではないかと言始めていた。ただし、戸塚先生は慎重だった。1988 年 1 月に書いた論文にはμ/e 比が与へてあり、neutrino oscillation の可能性が一言だけ書いてある(※5)。μ/e 比がシミュレーションと合はないのが何に由來するのか未だ決定的には分らなかったからだ。

(※5)K. S. Hirata et al. Experimental study of the atmospheric neutrino flux, Phys, Lett, B205,416(1988)<1988-1-25>

梶田氏は1986 年1 月のPhD論文ではニュートリノ振動ではなく核子のν+meson mode への崩壊の制限を扱った(※6)。ニュートリノ振動としての解析を積極的に始めたのは瀧田君がそれをPhD 論文として解析した1988 年頃だった。当時の解析はいわゆる sub-GeV の解析(<1.33GeV)であり、 multi-GeV の解析は 1988 年の論文のすぐ後に始められたが, 本格的に解析がが行われたのは 1992 - 3 年の頃だった。

(※6)T. Kajita et al. Search for nuclear decoys into aulineutrino + mesons、J. Phys, Soc. Jpn 55, 711(1986)

元来の目的である核子崩壊については 84 年頃迄の実験では全く見えず、小柴先生は 1983 年に既に大きい検出器を作らねばと云い出していた。JACK (Japan-American Collaboration at Kamioka)と呼んでいたが、これは現在のSuperkamiokandeに相当するものである。

Kamiokande による太陽ニュートリノの検出については小柴先生が 1983 年に言い出した。(小柴先生によると、JACK の提案と太陽ニュートリノの提案とは同じ会議でおこなったらしい。)太陽ニュートリノの検出のためには、anti-counter 層を作ることと、timing を読み出すことができる電子回路が必要だった。後者の電子回路については、ペンシルバニア大学(ペン大)の Al Mann が参加したいと言てきた。ちなみにKamiokande の最初の電子回路は増倍管の電荷情報しか読み出していなかった。trigger も総電荷量を使ってかけていたため、増倍管のノイズのために観測可能なエネルギーしきい値をあまり下げることができなくて、30MeV 位だった。anti-counter 層は、日本人メンバーによって 1984 年秋頃から 1985 年春頃にかけて建設され、Kamiokakande の phase 2 が1985年4月にスタートした。ペン大の電子回路は、当初 1985 年春の導入を目指していたが遅れてしまい、結局導入されたのは 1985 年 11 月だった。phase 2 が始まってからペン大の電子回路が入るまでの間は、戸塚・梶田が作った event の形態形状を考慮したトリガーが使われた。これにより threshold が 13 - 4MeVにさがった。ペン大の電子回路が入った後は threshold が 7MeV 位に下がった。これはPMTの時間情報を使うことによって、パルス幅が短い Cherenkov 光イベントを選択し易くなったためである。

anti-counter 層を入れて 1985 年始めに phase 2 がスタートしたが、trigger rateが未だ高過ぎた。これは 226Rn の崩壊によるものかもしれないので、水の供給を止めて trigger rate が Rn の崩壊にしたがって減少するか見てみようと鈴木厚人氏が言いだした。これによって trigger rate は大きく減少した(※7)。何とか 8B 崩壊起源の太陽ニュートリノをポジティブに觀測し始めたのは 1987 年始めだった(※8)。

(※7)A. Suzuki, in Physics and Astrophysics of Neutrinos, op. cit., Fig,19, Fig.22
(※8)K. S. Hirata et al. Observation of 8B solar neutrinos in the Kamiokande detector, Phys. Rev. Lett, 63, 16 (1989)

超新星 1987A

1987年2月25日(水)、Sid Bludman から東京大学素粒子物理国際センター(以下、素粒子センター)に fax が届いた。fax はE. W.Beier(ペンシルバニア大(ペン大)) 宛で、「4-7日前に Large Magellanic Cloud で超新星爆発があった。カミオカンデで見ることはできるか?」といった内容であった。戸塚先生は神岡の研究者に連絡して、すぐデータを記録した磁気テープを素粒子センターに送ってほしいと伝えた。当時、カミオカンデのデータはオープンリール式の磁気テープに記録されていて、テープは10本貯まるごとに宅急便で素粒子センターへ送られていた。Budman からの fax を受け、10本貯まらなくてもすぐ送ってほしいという要請であった。その頃カミオカンデでは、タンクを気密化する工事の準備が進められており、神岡にいた研究者は、須田英博先生(宇宙線研)、鈴木厚人さん(東大)、佐藤伸明君(東大学生)、E.W.Beier(ペン大)、S.B.Kim(ペン大学生) であった。この気密化工事は日程がすこし遅れていて、もし予定通り工事が行われていたら超新星爆発の日にデータを取っていなかったかもしれなかった。こうして磁気テープは26日に神岡鉱山から背負子で茂住部落の宅急便収集所に運ばれ東大に送られた。

2月26日(木)から情報収集、データ解析の準備が行われた。戸塚先生は天文台の香西洋樹氏から IAU circular の内容を教えてもらい、また fax でも送ってもらった。データ解析については、戸塚先生の指導のもと、私(当時博士3年)、平田慶子さん(当時修士1年)が解析プログラムを作った。戸塚先生が Nhit vs. Time 2 次元 plot を平田さんに作るように言った。(Nhit とはそれぞれのイベントでヒットしたPMTの本数で、第1次近似としてはイベントのエネルギーに比例する。)

当初は電気ノイズイベントが邪魔して超新星を探せるような plot は作れなかった。そこで私は space reconstruction をして Cherenkov 光による事象を選ぶことによって電気ノイズイベントを排除することを提案し、その後はノイズに影響されない plot が作れるようになった。

2月27日(金)の午後に神岡からの磁気テープが到着した。届いたテープは2月20日から2月25日までに取得されたデータであった。この日の夜(徹夜で)私が data reduction, space reconstruction のプログラムを走らせて解析の準備をした。

2月28日(土)の朝早く、平田さんが来て Nhit vs. Time plot を作りプリンターに打ち出した。しかし、あまりにもページ数が多かったためにプリンターの排出口で詰まってしまい、私がその対処にあたった。とりあえず印刷された分をとりだして詰まった紙を取り除いている間に、平田さんがとりだされた出力用紙をパラパラとめくって鋭いピーク状の信号を見つけ、私に「これって何ですか?」と聞いた。20-30MeV 相当以上のエネルギーのイベントがいくつかあることから(宇宙線 µ による spallation 事象ではエネルギーが高くても高々15MeV程度であること、大気ニュートリノ事象においてもこれほどエネルギーが低い事象はめったにないし、ましてそれが10 秒以内に複数起こることは確率的にほとんどあり得ない)、私は即座にこれが期待していた超新星ニュートリノの信号であることがわかり、かなり興奮した。また、安堵した。カミオカンデのオンラインソフトウエアは私が書いたが2時間おきに約2分間ペデスタルランという電子回路のゼロ点調節が走っていた。もし、超新星ニュートリノがペデスタルランの最中に来ていたら、大事なイベントを逃してしまったということになる。2月25日以来、このことがずっと気になっていた。安堵したのはこのペデスタルランにかかっていなかったためである。ちなみに、1987a の信号は直前のペデスタルランから3分後であった。

その日(2月28日(土))の午前の遅い時間(午後一番だったかもしれない)に戸塚先生が素粒子センターに来たので、発見の報告をした。その後、いろいろな分布を作って信号が確実なものであることを確認した。例えば、10秒間おきのイベント数分布を作って、SN1987Aの信号以外はちゃんとPoission分布に従っていること、sn1987a イベントの display を見てちゃんとした Cherenkov ring を形成していること、イベントの goodness(PMTヒット信号の時間の鋭さを示し、Cherenkov事象ではその値が大きい) が良いこと(※9) 、などを確認した。最初の2イベントが超新星の方向と良く一致していることに驚いた。(後に方向 fit プログラムを改良したところ、2番目のイベントは方向が離れてしまったが。)

(※9)それぞれの PMT が光を受けた timing を Ti とし、事象の発生点からその PMT までの光のTime of flight を T OFi とすると、信号を受けたPMTに対して Ti − T OFi のヒストグラムを作ると Cherenkov 光による事象では幅の狭い分布になる。この狭さを goodness というパラメータで定量化していた。[原註]

3月1日(日)に戸塚先生が小柴先生へ電話をして発見を伝えようとしたが、小柴先生は不在だった。後から聞いた話では、小柴先生は箱根の温泉に行っていたらしい。この日、戸塚先生はシフトのため神岡へ向かった。戸塚先生から、「明日の朝、小柴先生に報告しておいてくれ」と言われた。

3月2日(月)の朝、小柴先生に発見を報告した。しかし、小柴先生はニコリともせず、今までに取ったカミオカンデのすべてのデータを解析して、このような候補はこの SN1987A の信号のみであったということを示しなさい、という「宿題」を私に与えた。この日以降一週間ぐらいはあまり寝る間もなく解析をした。(結局のところ、すべてのデータを1週間で解析することはできず、1987 年1月 9 日から 43 日分のデータ解析で勘弁してもらった。)

3月2日(月)から3月6日(金)にかけて私、平田さん、鈴木厚人さん、瀧田正人君で論文にするためのデータ作りをした。具体的には、前記の43日分のデータ解析、モンテカルロを各イベントのgeometry で発生させて、エネルギー、方向の決定、誤差の評価をした。こうした解析の間も小柴先生から箝口令がひかれており、外部には情報をいっさい出せなかった。神岡へシフトで行っていた戸塚先生は、「いつになったら発表するんだ。」と文句を言っていた。3月2日にモンブラントンネルでの実験で Feb.23.124UT にニュートリノ事象があったという報告が IAU   circular に出て、すぐその時間のカミオカンデのデータを見たが、まったく信号の兆候はなかった。

3月5日(木)-6日(金)にかけて、小柴先生、A.K.Mann、E.W.Beier、戸塚先生、須田先生は素粒子センターの輪講室にこもり、論文の執筆をした。

3月7日(土)に Physical Review Letter への論文が完成し、郵便局からビジネスメールを投函した(※10)。論文作成を終えてホッとしていた時、佐藤伸明君と平田慶子さんが話をしているうちに超新星に対する方向を計算するプログラムにバグがあったことに気づいた。赤緯の0度方向を勘違いしていたらしい。プログラムを見直したところ、実はもうひとつバグがあって(それは sin/cos の入力ミス)、それらを相殺すると結果はほんのすこししか変わらなかったが、数字は微妙にかわってしまった。急遽、小柴先生たちも呼んで論文の訂正をした。小柴先生は平田さんに「男だったら切腹もんだ。」と叱った。訂正した論文を差し替えに郵便局へ行ったが、営業時間を過ぎてしまっていたため、実際には3月9日(月)に鈴木厚人さんが神田の郵便局まで行き、まだアメリカに送られる前だったビジネスメールと差し替えた。

(※10)K. Hirata et al. Observation of a Neutrino Burst from the Supernova SN1987A, Phys. Rev. Lett. 58, 1490(1987)

SN1987A の解析において苦労したことのひとつは絶対時刻の決定であった。そもそも Kamiokande は 1031 年といった陽子の崩壊寿命を測るための実験装置だったため1分ぐらいの絶対時刻のずれは気にしていなかった(戸塚先生の joke)。各事象の絶対時刻はデータ収集用のオンラインコンピューターが記録していたが、そのコンピューターの時刻は内部クロックを使っていたため経時的に変化していた。 Kamiokande シフトの仕事の一つは117へ電話してシフト室の柱にかかっている時計の時刻を直し、それとコンピューターの時刻を合わせることだった。しかし、超新星ニュートリノが観測された日から数日後にシフトの人がその時計を落として壊してしまい柱時計の情報が失われてしまった。結局、絶対時刻は以下の2つの方法で確認された。ひとつは2月23日に須田先生がモデムを使って Kamiokande の観測状況を宇宙線研からモニターした時の打ち出しだった。そこに残っていたモニターパソコンの時刻と観測状況に記録されていたオンラインコンピューター時刻を比較した。(もちろん、このパソコンの絶対時刻は後日確認した。)もうひとつの絶対時刻情報は超新星観測の日から数日後に神岡で停電があり、その停電直前のイベント時刻と電力会社が記録していた停電の絶対時刻を比較した。これらの比較により何とか ±1 分ではコンピューターの時刻が合っていたという確信を得た。

カミオカンデでの太陽ニュートリノ観測

1987年1月頃からバックグラウンドの低いデータが取られていたが、1987 年中はなかなか太陽ニュートリノの信号が見えなかった。しかし、flux の upper limitととしては明らかに標準太陽モデルからの予想値よりは低いことがわかり、私はこの upper limit の結果で博士論文を1987 年後半に書いた(※11)。この年に Bahcall のflux の予想値が 30%ぐらい大きくなったことも結論を出す助けになった。カミオカンデグループは1988 年 4 月に拠点を素粒子センターから宇宙線研究所へ移した。スーパーカミオカンデを宇宙線研究所において推進していくためである。太陽ニュートリノの解析は原子核研究所の大型計算機で行うようになった。1988年5月頃までにとった450日分のデータでやっと3 sigma レベルの太陽ニュートリノ信号が見え始めた。しかし、すぐに論文にすることはできなかった。当時、データ解析はペンシルバニア大学(以下、ペン大)でも独立に進められていた。ペン大が行った解析と私が行った解析とがなかなか一致せず、collaboration としてどの flux 値で論文を書くか折り合いがつかなかったためである。当時の解析では、実験の生データ、キャリブレーションの生データのみが共通のデータであり、モンテカルロシミュレーション、エネルギーの換算係数などの解析に基本的なツールは独立に開発されていた。event by event でデータを比較したところ、太陽ニュートリノ信号は80%以上ペン大と東大で共通の事象を選んでいたが、バックグラウンドになる事象は共通事象が50%程度だった。また、適用するカット条件もまったく異なっていた。そのため、flux 値に20%程度の違いが生まれてしまっていた。違いの原因を理解するのに1年近い歳月を要した。結局、違いはバックグラウンドの統計的なふらつきであることが分かった。当時は電子メールなどなかったため、日々手書きの fax を宇宙線研とペン大で送りあっていた。時として、ペン大の研究者と険悪な雰囲気になることもあった。結局、太陽ニュートリノの論文[註 8] ができたのは1989年4月だった。論文で採用された結果は東大の方の解析結果だった。

(※11)M. Nakahata, Search for 8B Solar Neutrinos at KAMIOKANDE-II, PhD. thesis, 1988.

はじめに/ 小柴昌俊「若き日の研究を振り返って:Kamiokande を始める迄」 / 荒船次郎「宇宙線研究所とKamiokande」 / 中畑雅行「Kamiokandeの頃(1)」 / 梶田隆章「Kamiokandeの頃(2)」