Records speak
サボるのは命がけ(だった)
現代日本では「授業をサボった」「会議をサボった」と、軽い冗談交じりに使われる「サボる」だが、その語源である sabotage(サボタージュ)は、もともと命がけの抵抗を意味する重い言葉だった。
Cambridge Dictionary(オンライン版)は次のように定義している。
sabotage
- - to damage or destroy equipment, weapons, or buildings in order to prevent the success of an enemy or competitor
(例)The rebels had tried to sabotage the oil pipeline. - - to intentionally prevent the success of a plan or action
(例)This was a deliberate attempt to sabotage the ceasefire.
敵対勢力の作戦を暴力的に妨害する行為、あるいは計画の成功を意図的に阻む行為。日本語での「怠ける」や「不参加」とは随分と距離が離れた、ずっと切実な言葉だ。
たとえば第二次世界大戦中、フランス国内のレジスタンス勢力は、ノルマンディー上陸を支援するために鉄道を脱線させ、通信線を切断した。これは「積極的な sabotage」である。
一方で、被支配下にある人々が、命令に従わず「実行しない」ことで支配者の行動を妨げる場合もある。これはより静かで、しかし同じくらい危険な形の sabotage だ。語源にある「木靴(sabot)を機械に投げ込む」という逸話のとおり、支配構造への小さな反抗として生まれた言葉である。
一つの例が、パリ司令官ディートリヒ・フォン・コルティッツである。連合軍が迫るなか、ヒトラーは「パリを焼き払え」と命じた。彼はその命令に従わなかった。純粋に倫理だけの問題ではなかったにせよ、その不服従の行為は、結果として一都市を救った。これもまた、広義の sabotage と呼んでよいだろう。
積極的であれ消極的であれ、sabotage は「抗議」の意志表示であり、しばしば命がけだった。
完全な服従も、直接的な反乱も許されない状況で、人はどう行動するか。倫理を備えた人間にとって、それは極めて困難な選択だ。
なぜ「倫理を備えた人間」と限定するかといえば、命令を無批判に遂行し、「出世のためなら何でもやる」人間には、そもそも葛藤が存在しないからである。そうした人の辞書に sabotage という言葉は載っていない。
そして、命がけで sabotage した人々が実在したという事実は、「命令だったから」「みんなそうしていた」という言い訳を無効にする。
ゆえに、多くの人々はその存在を直視したがらない。「昔のことは忘れて前に進もう」という言葉の裏には、「抵抗しなかった自分」への後ろめたさが潜んでいる。なぜなら、「一部の人は勇気をもって抗った」と知らされると、従順だった自分たちが相対的に「悪」になってしまうからだ。
だからこそ、現代の成熟した社会では、命がけでなくても抗議できる仕組み――正当な「異議申し立てのルート」を制度として整えることが必要である。
ただし、「声を上げた人が守られる」社会であるなら、その分同時に「黙認した人の責任」は以前よりも重くなるということも、忘れてはならない。
「サボる」という言葉が日本語の中で軽やかに使われるようになったのは、平和が長く続いた証拠でもある。
だが、組織の問題は主犯だけではなく、数多くの「消極的共犯者」によって成り立つ。彼らは追及を逃れやすく、そのために組織の体質は容易には変わらない。
もはや命がけでサボタージュする時代ではないかもしれないが、内部告発者(whistleblower)を守る制度と文化はいまだ途上にある。
「サボらずに」――ここだけは日本語の意味で――その仕組みを育てていく必要がある、と日々の暮らしの中で思う。