<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<<>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>> CRC会員 各位                CRC事務局 ************************訃報:金子達之助先生******************************** =================================== 岡山大学名誉教授の金子達之助先生が、 平成30年10月18日にお亡くなりになりました。 謹んでご冥福をお祈り申し上げます。 また、神奈川大学・垣本史雄 様より追悼文をいただきました。 =================================== 追悼文 故金子達之助先生とBASJE 金子先生がBASJE (Bolivian Air Shower Joint Experiment: ボリヴィア空気シャワー共同実 験)に参加し始めたのは1971年のことです.このプロジェクトは,1959年小田稔,B. Rossi 両先生により提案され,1960 年より菅浩一先生を責任者とし,日本,米国とボリヴィア 3 カ国共同実験として開始されたものです.その研究目的は,高山においてミュー粒子成分が 少ない空気シャワーを選別することにより,高エネルギー一次宇宙γ線を多く含むデータ ベースを作成し,その到来方向分布から高エネルギー宇宙線の起源を解明することでした. その実験場所としては,南米ボリヴィアにあるチャカルタヤ山宇宙物理学研究所(標高 5,200m)が選ばれました. 金子先生が参加された当時,空気シャワー実験テーマの主流は,高エネルギー相互作用の 研究にあり,3×1012−3×1013 eV における生き残り宇宙線陽子測定による陽子—空気原子 核衝突断面積の測定に取り組まれました.その結果は,後に陽子—陽子加速器反応実験結果 と矛盾しないことが確認されました. 次に,観測対象エネルギー領域を5×1016−3×1018 eVにするため,空気シャワーアレイ を約700×700m2に拡張する作業に尽力されました.このアレイを用いた実験により,電子 成分とミュー粒子成分,それぞれのサイズスペクトルから独立に得られた 2 つの一次宇宙 線エネルギースペクトルの比較を行い,高エネルギー陽子−陽子相互作用における平均多 重度が,当時学会で広く信じられていた相互作用モデルより大きいか,あるいは一次宇宙線 質量組成が質量数にして20程度であるとの結論を導かれました.更に,この結論を詳細に 確かめるため,空気シャワーの等頻度曲線とミュー粒子成分や空気チェレンコフ光の到着 時間分布の測定を主導されました.特に,後者2つの実験は,観測高度より上空での空気シ ャワー発達初段階の様相を間接的に測定できることから,高山での実験の特徴を最大限生 かしたものでした.この測定結果は,ようやく使えるようになった信頼できる空気シャワー シミュレーションコードを用いて解析され,一次宇宙線質量組成がエネルギーとともに重 くなるとの結論が示されました. 1981−1985年にかけては,1018 eV以上の超高エネルギー宇宙線観測のための新実験,特 に,空気シャワー中心部の高エネルギーハドロンコアが水中に突入したときに発する水中 音波測定による新実験可能性の検討に取り組まれました.実験場所としては,ボリヴィアと ペルー国境に位置するチチカカ湖を想定し,チチカカ湖やカラコッタ湖における水中背景 ノイズ測定を実施されました.これらの結果から,1km 間隔で単一のハイドロフォンを設 置した場合,観測可能な宇宙線のエネルギー下限値が1021 eVであり,また,この閾値を下 げるためにはハイドロフォンのSN比改善を待たねばならないと結論されました. 1986年菅先生にかわりBASJEの責任者となった直後,SN1987Aが出現し,急遽,シン チレーション検出器(4m2; 12台,1m2; 32台)を日本より搬送し,チャカルタヤ山南向き 斜面に有効面積8×103 m2の空気シャワーアレイを短期間に完成させ,1987年12月より観 測を開始されました.この結果により,1014 eV における SN1987A からの宇宙線到来頻度 上限値を報告されました.この実験と前後して,一次宇宙γ線観測を行うため,1985年に 既存の検出器の再配置を行い,その観測可能宇宙線エネルギー閾値を 6×1012 eV とされま した.この観測は1995年まで行われ,その結果,Vela X-1とCen X-3方向からの一次ガン マ線到来頻度上限値を報告されました. 1996年岡山大学を定年退職されると同時にグループ責任者を吉井尚先生に引き継がれま したが,2015年の共同実験終了時まで,研究遂行に多大なるご尽力をいただきました. 金子先生を偲ぶとき,最初に脳裏に浮かぶのは,常に,また,誰に対しても微笑みが絶え なかったことです.そのお人柄から,先輩諸先生からは「金ちゃん」と親しみを込めて呼ば れていらっしゃいました.また,ボリヴィアでは「Don Kaneko」と尊敬の念を持って呼ば れ,研究関係者のみならず,現地の日系人やボリヴィア人からも深く愛されておられました. それを物語ることとして,金子先生は,しばしばパドリーノ(洗礼名の名付け親)として洗 礼式への出席を依頼されておられました.さらに,ご趣味であったフォルクローレの演奏者 とも親交をもたれていらっしゃいました.ペーニャ(演奏会)にたまたま同行させていただ くと,常にかぶりつきの席が用意されていて,金子先生のご人徳の一端を垣間見る思いをし たことが懐かしく思い起こされます.最近は,殆どお会いする機会がなく,今回の急な訃報 に接し,いろいろな思い出が脳裏を駆け巡り,極めて残念で悲しい思いでいっぱいです. 最後に,敬愛する者のひとりとして,心よりのお別れの言葉を捧げたいと思います. 「アンデスの星空のもと,こよなく愛されたフォルクローレを子守歌に,どうか安らかにお やすみください」 2019年2月 垣 本 史 雄 ***************************************************************************************